「宝を天に」 マタイによる福音書6:19~21

深谷教会降誕節第7主日礼拝説教 2024年2月11日    
説教: 法亢聖親牧師
説教題:「宝を天に」  マタイ6章19~21節       

 「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイ6:20)
 主イエスは、マタイ6章20節に力点が置き、宝(富)に対する心の持ち方の勧めをされました。つまり、富(宝)をコントロールする心、富に振り回されない心を持つようにとの勧めです。「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(6:21)。
 パウロが「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」(ピリピ4:12)と語っているように、彼は貧しい中でも、豊かな暮らしが約束されている中でも感謝と喜びとをもって生きる生き方の秘訣、天に宝を積む生き方を身に着けていたのです。
 賀川豊彦が次のようなことを言っています。「世の中には、金持ち貧乏と貧乏金持ちとがいつもいるものだ。金持ちなのにいつも『足りない、足りない』と口癖のように連発する金持ち貧乏がいる。そうかと思えばどうみても豊かとは思えないのに何事にも感謝して心豊かに生活している貧乏金持ちも確かにいるものである。」
 賀川豊彦がいうように財をなしたからとて安心はできないのです。ひとたび心の中に虫やさびがつくとなかなか取り除くことはできません。また盗人たちが押し入って盗み出すということもあります。金利の体系が変わり、株価が変動し、インフレ、デフレと言った自分の力ではどうしようもない力が突如として襲いかかり、財産の実質価値を盗み取ってしまう、そのような悲劇も多くあるのです。
 聖書は富(財産・金銀)を悪いものなどとは言ってはいません。かえってそれらは神さまの恵み、祝福のしるしとさえ言っています。金は天下のまわり物ではなく、神さまからいただく恵みであって、その恵み(賜物)を神さまと人のために役立てることが求められているのです。献金はそういう意味から、献身のしるしとして神さまにおささげするとともに、神さまからいただいたものの一部を感謝のしるしとしてお返しし神さまの御用のために用いていただくという意味があるのです。
 「信仰があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何一つ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それでたれりとすべきである。・・・」(第1テモテ6:6~9)
 元来お金(富)は、オールマイティではないのに全能であるかのように錯覚させる力を持っています。聖書は、マモンと言っています。富は、神さまからさずかったものですから、そうしたものを拝んだり、そうしたものの奴隷となることのないように気をつけたいものです。そのようにならないために人間の尊厳を保ち、人間性を高めていただく必要があります。つまり信仰を高めていただきつつ天に宝を積む生き方を喜びとする者にかえられて行くことを祈り求めてまいりましょう(第1テモテ6:17~19)。

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